赤間神宮
下関と伊勢、遠く離れた赤間神宮と伊勢神宮。
瀬戸内海、関門海峡を望む高台地に建立された赤間神宮、三重県伊勢市の五十鈴川流域に祭祀されている伊勢神宮。
両神宮は、いづれも皇室のご先祖にあたる神さまをお祀りしている共通点以外にも不思議な関係性が2つあります。
今回は、ふぐで有名な山口県下関にある赤間神宮の基本的な参拝方法や最寄駅からのアクセス方法と近隣の観光スポット紹介のほか、伊勢神宮と赤間神宮に関わる謎についてもご紹介します。
では、さっそく皇室のご先祖にあたる神さまをお祀りする両宮、それぞれどんな神さまなのかチェックしましょう。
赤間神宮の神さま
伊勢神宮の内宮の神さまはいわずと知れた天照大御神(あまてらすおおみかみ)
いづれも天皇家のご先祖にあたる神さまなので「皇祖神(こうそしん)」と表すこともあります。
安徳天皇は壇ノ浦の合戦に敗れた平家一門とともにわずが8歳で入水崩御された幼帝。
「水天宮」との別名もあり安産祈願で有名な水天宮やその分祀社は、この安徳天皇を主祭神または祭神としてお祀りしています。
次に赤間神宮の基本情報を確認していきましょう。
赤間神宮の創建
源平壇ノ浦の合戦に敗れた平家一門とともに祖母「二位の尼」に抱かれ、8歳で入水崩御された幼帝「安徳天皇」をお祀りしています。
この時に安徳天皇とともに入水したとされるアイテムが赤間神宮と伊勢神宮との関わりの1つです。
それについては記事の後半でご紹介するとして話を本題に戻します。
赤間神宮は安徳天皇が崩御される以前から阿弥陀寺として創建されていましたが、壇ノ浦での入水から6年後の1191年に後鳥羽天皇の命により先帝の御影堂が建立さたことで勅願寺となり、安徳天皇の母である建礼門院ゆかりの尼僧が奉仕していたとされます。
1875年に神仏分離で阿弥陀寺を廃止、御影堂は赤間宮と改められます。
その後、1940年に現在の赤間神宮に改称されました。
現在の社殿は1965年にされたもので創建時の社殿は第二次世界大戦のおりに焼失している。
では、どうして赤間神宮は神社でありながら竜宮城のような水天門、神殿なのかチェックしましょう。
水天門と海の中の神殿
赤間神宮では楼門を「水天門」と呼んでいます。
その理由は安徳天皇を「水天皇大神」と称することから「水天(すいてん)の門」という意味で「水天門」としています。
このように竜宮城を模した様式を竜宮造りといい赤間神宮の他に日光東照宮に隣接する日光山輪王寺の大猷院(だいゆういん)、家光公の御廟につながる「皇嘉門(こうかもん)」や湘南江ノ島にある江島神社に竜宮造りの楼門があります。
しかし、神宮を冠する神社では唯一この赤間神宮のみ。
そして、赤間神宮は神さまをお祀りしている本殿は海の中にあります。
といってもリアルに海の中にあるのではなく本殿・内拝殿と私たちが参拝をする外拝殿との間に下関の海に見立てた人口池を作ることで海中の都、天皇が暮らす御所や内裏を演出しています。
正直なところの印象、強いて例えるなら広島の厳島神社のような・・・海に浮かぶ神殿でしょうか。
あまり期待すると残念かもしれませんが、天気が良くて撮影センスがあれば、珍しい光景には違いないのでインスタ映えする写真が撮影できたりします。
余談ですが、厳島神社も平家一門の武将である有名な平清盛ゆかりの地ですね。
本題に戻って赤間神宮が海中・水中の都を演出、コンセプトにしている背景には平家物語に記されている「波の下にも都がございます」に起因している。
簡単に平家物語の安徳天皇の壇ノ浦入水シーンを回想してみます。
平家物語と安徳天皇
平家物語では二位尼(平時子)に抱き上げられた安徳天皇が入水の間際「わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかけます。
これに対して「前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と答える。
すると安徳天皇はその小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝(はるか遠くから拝する意味)西を向いて念仏を唱える。
最期を覚悟された二位尼は三種の神器である八尺瓊勾玉と天叢雲剣を身に着け、「波の下にも都がございます」といわれると八咫鏡と安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦に身を投じます。
以上がざっくりとした平家物語の内容と赤間神宮が海の中の宮殿を象徴する竜宮城を模した水天門や拝殿、本殿が創建されている背景です。
ここで平家物語や歴史に詳しい人は八咫鏡も?
という疑問が浮かんだかもしれません。
八咫鏡がつなぐ2つの神宮
八咫鏡といえば、伊勢神宮の内宮に在り天照大御神のご神体をされる神鏡、それを模して造られ現在は皇居の賢所に納められている御霊分けされた八咫鏡の2つとされている。
定説では、その御霊分けされた八咫鏡は壇ノ浦に三種の神器とともに安徳天皇が入水されたおり、源氏によって回収されたとされています。
しかし、実は八咫鏡を壇ノ浦の戦いのさなか妹尾太郎兼康という平家の武将につらなる一族の者に託されたことで難を逃れたという説が存在します。
それによれば、壇ノ浦に安徳天皇とともに沈みゆくところを源氏の手によって回収されたはずの八咫鏡は現在の岡山県美作市の妹尾家一族が暮らす地区で天皇社を建て代々お守りされてきたというものです。
そして、時を経て天皇社の社殿は現存していませんが、その跡地で地元の歴史研究家が1958年に発見し、翌年1959年に赤間神宮に奉納され安徳天皇とともに在るという。
それを記した石碑が赤間神宮に八咫鏡 奉鎮の碑として設置されている。
この八咫鏡で伊勢神宮と赤間神宮とつながりましたが、もう1つ関係します。
それが「平家」です。
下関と伊勢平氏
平氏にもいくつかの系統がありますが、もっとも知名度があると思われる平清盛の系譜が、伊勢平氏です。
文字通り、伊勢平氏は伊勢神宮のある現在の三重県の伊勢、松坂、津あたりの一帯を領地とした平氏の一族で壇ノ浦の戦いによってその家系が断たれるという悲しい歴史も伊勢と下関を結びつけている1つの関わり。
では、つづいて基本的な参拝方法と境内の参拝順路などをチェックしましょう。
参拝方法とマナー
伊勢神宮にならい「二礼・二拍手・一礼」の作法で参拝をします。
赤間神宮にあわせて具体的にご案内します。
- 山陽道に面した鳥居をくぐる前に軽く一礼。
- 真ん中を避けて参道の端を進む。
- 水天門(楼門)も鳥居と同様に軽く会釈をしてくぐるのが大人の所作。
- 手水舎で手と口を清めてからさらに参道をすすみ、最後の石段を登りきると外拝殿が見えます。
- 軽く会釈をしてからお賽銭を納めます。
- 二礼・二拍手・一礼
- 最後に軽く会釈をしてそのまま外側に向かい斜め後方にさがってから体を切り返します。
正面の石段を登りきる。右手に水天門、左手にも参道がつづいています。
その左の伸びる参道を進むと安徳天皇の御陵「阿弥陀寺陵」があります。
境内左手、平家茶屋を通り過ぎたところに手水舎があります。
おみくじを引く場合は、拝殿左手に置かれているので一旦左後方に下がって体を左に向けてから歩きだすと美しい立ち振る舞い、所作となります。
以上が基本の参拝方法です。
さらに拝殿に向かって右手奥に「日本西門鎮守八幡宮」そのまた奥に「大連神社」があります。
日本西門鎮守八幡宮と大連神社
大分にある宇佐神宮から京都の岩清水八幡宮に分霊を勧請された際にその途中で一時的にお祀りした地とされています。
その昔、中国大連にあった神社を移築したものとされています。
こちらの参拝も二礼・二拍手・一礼です。
お守りやお札、御朱印は向かって左手にあるお守り・お札授与所でいただくことができます。
こちらの授与所では赤間神宮の御朱印、日本西門鎮守八幡宮の御朱印、大連神社のご朱印と3種類の御朱印をいただくことができます。
せっかく赤間神宮を参拝したなら平家の武将を祀った七盛塚や小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」の芳一堂にも立ち寄りたいですね。
七盛塚と耳なし芳一堂
七盛塚
その名称から7基の塚があると思いがちですが、実際には14基の供養塔が建立されており、その多くが名前に「盛」の字がつくことから七盛塚と呼ばれるようになりました。
耳なし芳一堂
なんとなく聞いたことがある人もいるかも知れません。
小泉八雲の著書で赤間神宮の前身である阿弥陀寺を舞台に描かれた「怪談」に登場する壇ノ浦の戦いで滅亡した平家の怨霊を鎮めるため琵琶を奏でる法師が耳なし芳一。
そんな芳一が平家の怨霊に襲われないようにと阿弥陀寺の住職が般若心経はじめ経文を芳一の体中に書きました。
これで怨霊たちにはその姿を確認することはできなくなるはずでしたが唯一「耳」だけ書き損ねていました。
そのため、両耳を引き千切られてしまうというお話し。
参拝時間とお守り・御朱印の授与時間
参拝については終日可能。
お守りやお札の授与、御朱印については8時30分から17時まで。
宝物館は有料(100円)で営業時間は9時から18時まで。
宝物館には源平、壇ノ浦の合戦などに関する歴史的な資料などが展示されています。
次に赤間神宮の場所を確認します。
アクセス
下関駅方面から山陽道を観光客に人気の唐戸市場やカモンワーフを右手に見ながら関門橋方向に5分ほど走ると左手に竜宮城を模した水天門が姿を現す。
本州の最西端に位置する山口県下関市。
関門海峡や源平合戦で有名な壇ノ浦を見下ろす海沿いの高台に赤間神宮があります。
住所としては山口県下関市阿弥陀寺町4-1
地名にある「阿弥陀寺」は赤間神宮の前身である阿弥陀寺に由来しています。
駐車場
赤間神宮の正面、山陰道をはさんで関門海峡側に専用の駐車場を完備しています。
コメント